ミュージシャン/LIVE Café Jiveオーナー 上綱 克彦さん

vol51_上綱さん
ミュージシャン
LIVE Café Jiveオーナー
上綱 克彦さん

【プロフィール】
広島市出身。姉の影響で小学生からピアノを始め、幟町中2年の時に初めてのバンドを結成。崇徳高2年には新しいバンドを作り、後に名だたるミュージシャンを輩出するヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの全国大会出場など、広島のアマチュアバンドとして高い評価を受ける。高校卒業後は、ディスコやナイトクラブで演奏するバンドマンとして活動。1974年、ギタークリニックで来広した柳ジョージ氏と出会い、意気投合。1975年、柳氏に誘われ上京、「柳ジョージ&レイニーウッド」結成となる。1978年、1stアルバム『Time in Changes』をリリース。1981年の解散までトップバンドとして活躍する。バンドの代表曲『青い瞳のステラ、1962年夏…』をはじめ、作曲も多数。2010年、広島に戻り先代から引き継ぐ形でLIVE Café Jiveのオーナーとなる。現在も拠点は広島としながら、ミュージシャンのツアーやレコーディングに参加。Jiveで開催される広島豪雨災害復興支援チャリティーライブ「ヨコヤマ☆ナイト」の他、被爆ピアノコンサート、江田島ブルースロックフェスなど、地元広島のためのイベントも精力的に主催。


悪い時代も絶頂期もあった。
そして今、笑って音楽と生きている。


 バンドを組み、音楽漬けの学生時代。高校卒業後も夜の店で演奏するバンドマンとして活動。そうした中「いつか東京で一旗揚げたい」という思いを抱き続けていたと振り返る上綱さん。運命的な出会いは、昭和49年。ギタークリニックで広島に来ていた柳ジョージ氏とセッションする機会があり、そこで意気投合。東京で一緒にやらないかと誘いを受けます。「待っていたチャンスが来た」。こうして上綱さんはバンドメンバーと上京。昭和50年春のことでした。
 高く評価される音楽性の一方、流行に迎合しないスタイルは、所属事務所やレコード会社が決まらない原因でした。ようやくアルバムをリリースしますが、これも渋好みすぎて売れません。評価だけが上がり、泣かず飛ばずの状態が続きました。ターニングポイントとなったのが、萩原健一氏のバックバンドとしてツアーに参加したこと。ツアー後、萩原氏から「来年も一緒にやろう。来年やる時は、お前ら俺と同じくらい売れてるよ」と言われ、そんなわけないと思ったそうですが、ほどなくして萩原氏主演のテレビドラマに楽曲『雨に泣いてる』が起用されることに。直後、音楽番組『夜のヒットスタジオ』の出演を経て、上綱さんの見る景色は一変します。当時住んでいた下北沢の街の至るところから自分たちの音楽が流れてきて、それまで足を運ぶことのなかった層をレコード店へ走らせました。一夜にしてトップバンドとなった「柳ジョージ&レイニーウッド」。昭和56年の解散まで、彼らは輝くままに走り抜けたのでした。
 数々の作曲もこなしてきた上綱さん。創作の根底にあったのは、何年経っても色褪せない普遍性のあるスタンダードナンバーであること。歌い継がれる名曲と消費される曲の違いはここにあると話します。そして、今だに歌い継がれる『青い瞳のステラ、1962年夏…』は、自分を存在させてくれる普遍的なナンバーの一つです。「ただ、自分の場合は締切が迫ってないと曲が降りてこないんだけどね(笑)」。そんな上綱さんに、音楽を仕事にして良かったこと悪かったことを尋ねると…「ひもじい思いや惨めな思い、悪かったことは多分たくさんあったけど、今笑っていられるから良いことしかない。過去を笑えるのは、今幸せだからだよ」。ミュージシャンとして、ライブカフェのオーナーとして、今なお音楽漬けの生活を送る上綱さん。生まれ育った広島を音楽で盛り上げるため、その活動はより精力的ですらあります。




LIVE-Café-Jive

繁華街・薬研堀にあるLIVE Café Jive。地元広島で活躍するミュージシャンから人気バンドのツアーまで、年間数多くのライブを開催。運がよければ上綱さんの弾き語りが聞けるかもしれません。「コロナから脱却し、早く広島の夜に以前のような活気が戻ってほしい」と上綱さん。