元プロ野球選手・監督、野球評論家 達川光男さん

vol45_達川光男さん
元プロ野球選手・監督、野球評論家
達川光男さん

【プロフィール】
1955年生まれ、広島市出身。広島商高時代の1973年、春のセンバツに出場し準優勝。続く夏の甲子園では見事優勝を果たす。東洋大時代の1976年には東都大学リーグで野球部創設以来の初優勝を勝ち取る。1978年、ドラフト4位で広島東洋カープに入団。6年目の1983年に正捕手の座を掴み、1992年に引退するまで広島一筋でマスクをかぶり続けた。引退後は解説者となるが、指導者として、福岡ダイエーホークスでコーチ、広島東洋カープで監督、阪神タイガースでコーチを歴任。10年ほど間を置いて、2014年に中日ドラゴンズ一軍チーフバッテリーコーチに就任、2017年からは福岡ソフトバンクホークスの一軍ヘッドコーチに就任。同年のリーグ優勝、日本一に貢献し、2018年契約満了で退団。2019年からは野球評論家としてテレビ等に出演。同年、広島県警「特殊詐欺防止」の広告塔に起用され、以後、特殊詐欺防止をテーマとした講演活動も行っている。ベストナイン(84、86、88年)、ゴールデングラブ(84、86、88年)、1000試合出場達成(89年)。


どんなことでも
受け止めんとしょうがない。
それがキャッチャー人生から
学んだこと。


 野球ファンならずともCHIC世代の誰もが知る元プロ野球選手・達川光男さん。甲子園優勝、大学リーグ優勝、プロとしてもリーグ優勝に日本一など華々しい経歴を持ちますが、野球人生を振り返って一番印象深い思い出は、意外にも高校時代だと語ります。
 早朝から深夜まで続く練習、厳しい上下関係…曰く「人生で一番しんどかった」広島商業時代。青春のすべてを捧げ昭和48年、夏の甲子園優勝を狙いますが、準決勝・川越工業戦を前にマナーについて宿舎から注意を受け部内の雰囲気は最悪に。達川さん自身も落ち込んだ気分で試合に臨みますが、そんな時マウンドから駆け寄ってきてくれたのが大会の快進撃を支えるピッチャー・佃正樹さんでした。「お前が構えたミットに投げたい。ボールを呼んでくれ」。その言葉に、試合中のピッチャーがいかに孤独であるかを知り、佃に気を遣わせたこと、そして彼の精神力の強さに涙がこぼれました。「この経験がキャッチャーという仕事を学んだ原点。プロになって優勝を経験したのも、北別府や大野など素晴らしいピッチャーとめぐり会えたから。佃との経験がなければ、気の短い自分がこちらから合わせにいき、思い通りにならん球でも受け止めるキャッチャーなんて仕事はできんかったかもしれん」。これを機に〝自分の思い通りになれば充実感があるが、たとえならなくても物事はうまく運ぶことは多い。だからいつどんな時でも受け止めないとしょうがない〟という考えは、野球以外でも達川さんの信条となりました。佃さんとはその後、彼が開通に尽力した平成10年の明石海峡大橋の開通式で再開。「俺が造った橋をお前に見てほしい」とテープカットに招待され、この時の感動は数ある野球での優勝を超えるものだったそうです。
 現在も母校で野球指導を行い、その指導力も折り紙付き。近年では福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチを務め、二年連続日本一へと導いたのは記憶に新しいところです。そんな達川さんの指導哲学は〝一生懸命その人を見ること〟。技術指導はもちろん、言葉が持つ力も大きいと話します。ホークスのコーチ時代には「凡事徹底できる、素直で真面目な子」と語る甲斐拓也選手も指導。当時正捕手ではなかった甲斐選手が「いつ二軍に落ちるか不安」と萎縮していたところへ「心配するな、二軍には落とさん。もし落ちたらわしも一緒に落ちてやる」と達川流の寄り添いで不安を払拭。いまや日本を代表するキャッチャーとなった甲斐選手も、この言葉を心の支えに安心してプレーできたと後に語っています。
 「負けるとも思わんかったけど、勝てるとも思わんかった。ずっとそういう感じでやってきた。結構日本一になったけど、喜びよりも負けなくてよかったの方が大きい」と達川さん。打てない時には代打の切り札が、投げ疲れたならリリーフが、そうして周りが助けてくれるスポーツが野球。だからこそ、周りに迷惑をかけたくないという思いは人一倍強く、それは野球に限らないそう。「じゃけんいまは終活もしとるんよ、ちょっと寂しいけどね」と笑います。




数え切れないほど多くピッチャーの球を受けてきた手

中学で野球部へ入り、高校・大学・プロと、数え切れないほど多くピッチャーの球を受けてきた手。プロである以上、野球はあくまで職業と話し、この手で稼いできました。商売道具であるキャッチャーミットも、いまだ大切にしているそう。