【終活体験談】築100年超の生家を解体するまで①

この記事は2021年8月5日に作成および更新したものです。
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終活体験・生家を解体するまで-1

「わが家を解体する」という選択。
CHIC世代の皆様は、「わが家の解体」を体験されたことがおありですか?
「終活」や「相続」において、わが家を「手放す」「解体してしまう」という経験は、人生の節目において、重要な出来事です。
このレポートでは、わが家を解体する決意から、実行するまでの過程がわかるだけでなく、家を解体する前と、解体した後で、「気持ち」はどのように変化していくのか。
このたび、実際に、生家を解体する体験をした私と、私の家族の体験談をもとに、お伝えします。

▼この記事を読んで分かること
◎家を解体するとは?
◎生家を解体することになった理由。
◎家を解体するにあたり、大変だったことは?

この記事を読めば、「家の解体体験」についてわかるので、ぜひ参考にしてみてください。

1. 生家を解体することにした理由・きっかけ

生家と故郷への想い

生家の全体写真(航空写真)

「家を壊すことになったよ!」と、父から告げられたのは、ちょうど1年前、2020年の初夏でした。
その時の衝撃、悲しさ、切なさを、私は忘れることができません。

「古いから、仕方がないな。」「いつかは、なくなるのかもしれない。」と、覚悟はしていました。
しかし、実際に自分が生まれ育ち、長年、生活してきた家が、なくなってしまう現実と向き合う時、その想いは、はかりしれないものでした。

生家の解体前 写真 家の西側

私の生まれ育った生家は、築100年を超えていました。
広島市安佐北区三入(みいり)というところに建っていました。
JR
可部駅から、可部の中心街を経て、さらに奥の地域。
三入から、広島市中心部へは、可部線や車で40分。バスでは約1時間かかります。

長年、広島市中心部への通学や通勤に、私は1日で、往復2時間を費やしていたのです。

生家 築100年超えの佇まいの様子 東側・玄関側

私が総合商社に勤務していた時代には、「交通費が1番高い社員」だったことからも、どれだけ遠い場所にあるのかがおわかりでしょう。
それでも、可部や三入は、美しい山と川、青空と澄んだ空気にめぐまれ、私は井戸水で育つという、ありがたい環境。
豊かな自然が魅力の故郷なのです。
私が主に生家で過ごしたのは、20代まで。
20余年であっても、思い入れは深いため、なおさら、両親、特に、生まれ育った私の母にとって、この決断はつらかったと想像します。

生家解体の決断とは?

生家の周囲に塀を増設した時の写真
家の周囲の田畑が
駐車場になり、塀を作った時。
生家の玄関前
花や盆栽がたくさんあった生家。
生家の庭と池と、築山の様子
池や築山を眺められました。

◆ 私の父に、解体することになった理由や、きっかけを尋ねてみました。

 

(父)「広島市北部にある自宅は、宮島の鳥居と同じ、自分の重みだけで基礎石に載っている、100年超えで、20年前の芸予地震時に全体が少しずれ、耐震や熱効率の悪さ、それに何よりも、近づく高齢化への備えに建替えを勧められていた。

ということだったのです。まずは、この事実から目をそむけることはできないと痛感しました。

 

さらに、

(父)「いま、国の空き家対策など『マイホーム売却に3000万円の特別控除』特例があって、一般的には、土地売却に約20%の所得税が課税されるが、私たちは夫婦で土地を共有相続したので、6000万円までは無税の枠があり、政策を利用するのが得策かと。」

 

このような政策があるのですね。私は、はじめて知りました。

生家の解体工事作業中

生家の解体工事 作業現場

そして、

(父)「亡き父が生前、広島市中区橋本町の京橋川河畔にセカンドハウスを所有していて、私も以前、西武百貨店社員としてJR広島駅前の再開発事業に携わっており、結果は撤退したが、ここを自宅に替えれば毎日、川向かいが眺められ、持管理のムダも省けると。」

と、私の祖父の時代からの話も教えてくれました。

(父)「自宅の隣がスーパーのフジ三入店、バス停は目の前、小学校・幼稚園まで徒歩2分の好立地跡に、5LDKが6戸建つ計画があり、古い家がポツンとよりも、高齢化で会員が減る、悩みの町内会など、地域の発展に少しでも貢献できれとの思いも。」

と、教えてくれ、私も納得。感慨無量です。

2. 家を解体するにあたり、大変だったことは?

生家の座敷とひな人形
ひな人形は、親子2代分あった。

生家の座敷 床の間
家財の処分が大変だった。

実際、解体するにあたり、やはり一番、奔走したのは父です。父の証言はつづきます。

 

(父)「何せ、古く不便な家には、1Fに7部屋と離れ家、2Fに6部屋。
さらに蔵や納屋と、膨大な荷物の山の処理に、気が遠くなり、しばらく手がつけられなかった。

とのこと。
それは私も、生家に残してきたものを、娘と一緒に選別作業をするため、帰省した時に感じました。

 

(父)「4代目を引き継いだ私が、自宅の売却処理で、先ず、多い親戚関係への対応から考えたが、『亡父が所有のセカンドハウスへ転居する』ことで、特に何も無かった。」

 

という話は、娘の私も知らないことでした。

(父)「お墓が自宅近くにあったが、タイミング良く、菩提寺が、永代供養墓地の募集を始めたので移し、この先の先祖供養の心配も無くなった。」

 

私は家族や親戚の中で、ひとり「カトリック教徒」のため、故郷のお墓に入ることはありません。
わが娘も、いつか嫁ぐことを想定して、このタイミングでの両親の決断は素晴らしいと尊敬しました。

 

生家の座敷の様子

さらに大変だったことは、

 

「地域では古くから在る家だし、維持管理物件も少し残っていて『それでは、サヨウナラ』ともいかず、一緒に子供会・町内会の活動をした家などへの挨拶まわり。」

ということでした。

 

小学生時代は、私も重要な地域のコミュニティの「子ども会」に属して育ったため、この気持ちが、とてもよくわかります。

3. まとめ

すでに解体を終えた現在は、よき思い出と、感謝の気持ちばかりが残っています。
「家を解体する」と頭で想像してみても、実際に解体計画をし、実行していく過程の中で、関わる家族たちの、並々ならぬ努力と労力があったことを、思い返しています。
「体験談」はまだまだ続きます。次回もご期待ください。

<パート② へつづく>




竹本 明範(ライターの父)/プロフィール

1943年11月
広島市生まれ 法政大学社会学部 卒業
中学・高校の社会科教員免許 取得 

1966年 4月
株式会社広島マツダ 入社
・入社3年目、年間100台以上販売の
 全国マツダマンに与えられる
 「金バッジ営業マン賞」受賞
・入社4年目から、主として
 営業マン教育スクール開講を担当
・昭和51年 広島マツダ硬式野球部が
 都市対抗全国大会に4強で入る
 マツダ東京支社に駐在し、後楽園2000人の
 応援団結成に奔走する
・昭和54年~55年、広島東洋カープへ短期出向する

1989年 7月
西武百貨店入社
JR広島駅前Bブロック再開発に出店業務で携わる

1992年 4月
パルコへ出向
東京渋谷のパルコ本社で、広島パルコ開店準備室勤務

1994年 4月
広島パルコを広島本通りに店次長としてオープンさせる

1998年 1月
(有)バンブーデュエを設立
自己所有不動産の管理会社

2003年 4月
医療法人 和同会
広島パークヒル病院(広島市西区田方)事務長で入社

現 在   4月
広島シーサイド病院(元宇品)
広島グリーンヒル病院(佐伯区下河内)
3病院同系法人 社会福祉法人 広島博愛会 監事



【趣 味】男声合唱・ゴルフ
     法政大学アリオンコール(男声合唱団)卒団
     東京六大学合唱連盟マネージャー
     東京六連クラブ広島を設立 代表幹事


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「カーサ・ヴェルディ三入2丁目」
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(担当ライター:山田典子